書評特集の特別編「教育学研究特講Ⅱの思い出」です。中央大学大学院の授業にゲスト出演した際の質疑応答を掲載します。後半は、「教育のジレンマ」をめぐる質疑応答から抜粋して掲載します。
教育のジレンマをめぐって
(2020年7月)
・今回のご発表は、教師の役割とは何か、主体性とは何かなど、改めて、私たちの教育活動の足元を掘るような内容でした。お話を伺いながら、自身の実践や子どもとの関りを考えていました。ですので、少し個人的な話題から始めます。
・ぼくが大正自由教育の学校に勤務したきっかけは、民主主義と教育の関係に関心があったからです。大学・大学院で教育学を学ぶなかで、日本におけるお手製の民主主義として、自由民権運動と大正デモクラシーに着目していました。
・とくに、大正デモクラシーは、教育によって社会を創りかえるということがほのかに現実味を帯びた時代だと思います。大正自由教育によって産み出された学校に関わることで、その背後にある大正デモクラシーに連なりたいと思いました。
・100年を経て、改めて、いま大正自由教育的であることの意味は何か、そして、どうすれば大正自由教育的なものが可能となるのかと、日々、自問しています。実感したことがあるとすれば、大正自由教育的なものはある種センスの問題なのだということです。
・大正自由教育には様々なジレンマがあります。例えば、「子ども中心主義」というジレンマ。「子ども中心」といった時点で、「子ども」と「大人」に分断されます。そこで「君が子どもで、ぼくが大人だ」と言えば、すぐに教師/生徒の旧教育に後退します。
・進歩主義教育の主導者たちは、子どもと大人、教師と生徒という関係を組み替える覚悟をもって、敢えて「子ども中心主義」という言葉を使いました。「子ども中心主義」という言い方はあくまで「方便」であって、真顔で詰めるべき性質のものではないというセンスです。
・そして、実際の教育実践に際しては、教師自身のなかにある「子ども」、そして、子どものなかにある「大人」という部分を感じとることのできるセンスが求められた。これが実感の1つです。
・加えて、「主体性」をめぐるジレンマもあります。「子ども中心主義」という場合、それは「教えない教育」なのかとか、子どもが教育を主体的に構成するということなのかとの批判が加えられてきました。
・実際は、教師と子どもの相互作用で教育行為が行われます。主体なのか客体なのかという二項対立ではない。能動的主体性(指導=管理)よりも、受動的主体性(中動態=相即=啐啄)を称揚するセンスに対して、大正自由教育が開かれていたということです。
・「受動的主体性」の先進性は、ソマティック・マーカー・モデルによって証明されます。アントニオ・ダマシオは、理性的推論は情動系の作用によってなされるとします。情動系の根拠は外部環境ですので、能動的な主体性は存在しないことになります。
・同じことがsense of agencyという術語の語用からも推論されます。認知科学の議論(common coding theory)では、能動的主体性のことをわざわざsense of self-agencyと呼んで、sense of agencyと区別します。
・sense of agency=他者的な主体感覚=「受動的主体性」が主体性の基盤であって、sense of self-agency=主体的な主体性=「能動的主体性」という感覚はあとから仮構されたものであるということが示唆されています。
・もうすぐ出る授業論に関する論考では、こうした流れに掉さして、能動的主体性ではなく受動的主体性を称揚しています。とくに、前回も話題に出した「中動態」(middle voice)という概念を借りながら、「授業」における教師と生徒の相互作用を明確化したいと考えています。
・前回の質疑応答の内容をうけて、教育と主体性について考えています。「主体的な生徒を育てる」ということを目指した実践が数限りなく行われてきました。それで、人は主体的になったのか。そもそも、授業を受ければ人は「主体的」になるものなのか。
・「主体性を伸ばす」とか「主体性を育む」という言葉のなかに、教師(大人)の思い上がりが見られるように思います。「主体性」を教えるのではなく、授業や日々の関りの中で生徒と自分とのあいだに「受動的主体性」が互いに育っていくような在り方を模索したいと願っています。
書籍情報
『無意識の脳 自己意識の脳』
アントニオ・ダマシオ(田中三彦訳)
講談社,2003.