標題の言葉は谷村新司さんのもの。
続けて、「その1人と出会うために交流が大切なのだ」ともおっしゃっていたように思う。
今日(10月17日)の安徽大学の授業では、谷村新司さんのことを話しました。
安徽大学で谷村さんの話をするのは、今年に入って二回目。
日本の学校も合わせると、日中友好に関連して、これまで何度となく谷村さんのことを話してきました。
72年の国交正常化を機に、谷村さんは日中の歴史を丹念に学んでこられた。
その成果として行われたのが、81年の北京での日中共同コンサートでした。
当時は、日中友好が進んだぶん、その反動も大きかったようにおもわれます。
コンサート開催までの十年間には、日本国内ではおおよそ以下のような動きがありました。
1975年 | 第66代内閣総理大臣・三木武夫が靖国神社を参拝。首相による終戦の日の参拝は初めて |
1976年 | 日本遺族会が「英霊にこたえる会」を結成。「首相や閣僚による公式参拝」を要請する運動を展開 |
1978年 | 第67代内閣総理大臣・福田赳夫が靖国神社を参拝 極東国際軍事裁判(東京裁判)におけるA級戦犯14人を国家の犠牲者「昭和殉難者」として合祀 |
1979年 | 第68代内閣総理大臣・大平正芳が春期例大祭で参拝 |
1980年 | 第70代内閣総理大臣・鈴木善幸と共に閣僚が大挙して参拝 |
日中共同コンサートが開催された81年には、日本で「みんなで靖国神社に参拝する国会議員の会」が結成されています。
こうした時代の流れの中で、「昴」が80年に発表されます。
「昴は宇宙人からのメッセージ」という有名な自作自注は、どうもチンペイさん一流のジョークというか、エクスキューズ・目眩しという気がしてなりません。
「目を閉じて 何も見えず 哀しくて目を開ければ…」
こうして始まるこの曲には、とても複雑な文脈が織り込まれているように思われるからです。
たとえば歴史認識です。
ある視点からは、自虐史観が問題になります。
他方で、別の視点からは歴史修正主義が問題になる。
どちらが悪いということではなく、重要なことは、歴史に対して目を閉じないこと、歴史と向き合うということであると、この作品に触れて改めて感じます。
歴史を直視したとき、そこに広がる佳景を楽しむこともよいけれども、他方で、当然そこにあるはずの「荒野」に目を向けることも重要ではないか。
あるいは安全地帯を出て、共通理解のないところに友好を作り上げようとするとき、重要なことは「荒野に向かう道」を直視することなのではないか。
ややもすれば不遜なこうした歩みをすすめるときには、「名も無き星たち」「砕け散る宿命の星たち」がそっと、ひそやかにわが身を照らしてくれる。
谷村新司さんはこうやってアジア友好の道を歩いてこられた。
「こがらし」が吠き続けていたとしても、ただ心の命ずるままに。
今日の授業は、谷村さんと日中友好に関するとりとめのないお話から始まって、みんなで「昴」を聴きました。
谷村さんの「昴」が僕と学生たちの中に入って、日中友好に関する思いを取り持ってくれたようです。
「谷村先生が歩んだ道を、歩もうとする日本の先生、中国の先生たち、私たちがいます。どうか、私たちの道を照らしてほしい」
今日の授業に参加した学生がくれたコメントです。
ぼくもまったく同じことを思っていたんだと、いま返事を書いたところです。